対馬の狛犬めぐり ~島の聖域の守護者たち~

対馬の狛犬めぐり ~島の聖域の守護者たち~

狛犬の起源 古代オリエントから日本へ

私たちが神社の境内で何気なく目にする狛犬ですが、その起源は遠く中東オリエントの世界にまで遡ります。古代オリエントにおいて、百獣の王であるライオンは「力」の象徴とされていました。このライオンをモチーフとした王権や聖域の守護獣の造形が、シルクロードを経由してインドへ渡り、さらにライオンが生息しない中国に伝播すると、その姿は想像上の幻獣である「獅子(しし)」へと変化しました。そして仏教の伝来とともに、飛鳥・奈良時代の日本へと伝わってきたとされています。

(写真1)女神イシュタル(イナンナ)とともに、ライオン(力の象徴)とフクロウ(知恵の象徴)が表現されている。出典:ウィキメディア・コモンズ(パブリックドメイン)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Queen_of_the_Night_(Babylon).jpg
(写真2)中国南方で見られる幻獣のような獅子=南獅(沖縄・福州園)

日本における進化と変遷

大陸から日本へと渡ってきた獅子は、独自の進化を遂げることになります。本来は左右対称の一対の「獅子」でしたが、非対称を好む日本人の美意識の影響か、向かって右側は口を開けた「獅子(阿形・あぎょう)」、左側は頭部に角を持ち口を閉じた「狛犬(吽形・うんぎょう)」となり(逆のケースもあります)、これらを総称して「獅子狛犬」、略して「狛犬」と呼ぶスタイルが定着しました。

(写真3)「獅子」 文久2年/1862年、舟志乃久頭神社(長崎県対馬市上対馬町舟志681)
※以下「長崎県対馬市」を省略
(写真4)「狛犬」 文久2年/1862年、舟志乃久頭神社(同所) ※角が特徴

初期の狛犬は、主に宮中や寺社の屋内で使われる木製の調度品(神宝)でしたが、平安時代以降に境内の野外へ置かれるようになると、風雨に耐える「石造」が主流となっていきます。江戸時代には、全国の石の産地を舞台に、岩石の特性を知り尽くした職人たちによって個性豊かなご当地狛犬が作られ、狛犬文化が一気に花開きました。その背景には、航海安全や商売繁盛、疫病退散を願う裕福な商人たちの存在がありました。戦前は戦勝祈願の意味合いが強まるなど時代ごとに役割を変えてきた狛犬ですが、戦後は機械化やデザインの画一化が進み、現在では海外からの輸入品が据えられることも珍しくなくなっています。

対馬の狛犬

狛犬の足元にある台座は、いわば「履歴書」です。そこには、奉納された年や奉納者の名前、時には石工の銘などの貴重な情報が残されています。それらを読み解いていくと、一見同じように見える狛犬たちから、時代ごとの傾向や地域の歴史が浮かび上がってきます。まずは年代順に、その移り変わりを見ていきましょう。

(写真5) 「狛犬の台座」 明治39年/1906年、鹿見本神社(上県町鹿見126)
(写真6) 「狛犬の台座」 大正10年/1921年、和多都美神社/高倉神社(美津島町根緒432)

江戸時代末期: 海路がもたらした花崗岩の狛犬

対馬の狛犬のルーツを紐解くと、まずは江戸時代末期に一つの波があることに気付きます。厳原八幡宮(厳原町中村)をはじめとする島内各地に、花崗岩(かこうがん)の狛犬が奉納されており、多くは関西風のデザインです。中には、産地が異なり、石工の名前が判明している貴重な例もあり、たとえば金毘羅神社(厳原町大手橋)に鎮座する愛嬌たっぷりの狛犬は、赤間関(現・山口県下関市)の石工・清兵衛によって刻まれたものです。関東で一般的な「江戸狛犬」は島内には存在せず、これらは対馬と日本海、そして瀬戸内海を結んでいた北前船(きたまえぶね)の航路による影響なのかもしれません。

(写真7) 「厳原八幡宮の狛犬」 文化4年(1807年)、厳原八幡宮(厳原町中村645-1)
(写真8) 「金毘羅神社の狛犬」 文政7年(1824年)、金毘羅神社(厳原町大手橋1079)

明治時代: 移住と交流が生んだ多彩なスタイル

明治期に入ると、広島や山口の漁民が対馬に入植するようになり、狛犬のスタイルは多様な広がりを見せます。前脚を伏せてお尻を高く上げる島根由来の「構え型」や、宝珠(ほうじゅ)の上に脚を乗せる広島由来の「玉乗り型」などが登場し、移住者たちの故郷との深い繋がりを今に伝えています。

 (写真9) 「構え型の狛犬」 天神神社(豊玉町小綱183)
(写真10) 「玉乗り型の狛犬」 昭和14年(1939年)、豊和多都美神社(厳原町椎根1243)

また、和多都美神社(豊玉町仁位)や志賀神社(美津島町今里・無人島)には、佐賀県武雄の石工・金原嘉七の手による優れた作品が残されています。合祀により社殿が失われ、参拝者が絶えた鉾神社(峰町吉田・神ノ山)の山頂にも、この時期の狛犬がひっそりと佇んでいます。

(写真11) 「金原嘉七の狛犬」 明治36年(1903年)、志賀神社(美津島町今里293/無人島)
(写真12) 「明治期の狛犬」 明治27年(1894年)、鉾神社(峰町吉田/神ノ山)

大正・昭和初期: 島内石工の登場と発展

大正時代を迎えると、対馬の狛犬文化は大きな転換点を迎えます。島内の石工による奉納が始まり、その代表格が、「石工名人」と称えられた田崎亀次です。亀次の作品は、初期の素朴で定型的な形から、写実的で繊細な表現へ、さらには力強く骨太な「構え型」へと、約20年間で劇的な変化を遂げていきました。

(写真13) 「田崎亀次の狛犬(初期)」 大正9年(1920年)金毘羅神社(上県町佐須奈)
(写真14) 「田崎亀次の狛犬(晩年)」 昭和15年(1940年)豊崎神社(上対馬町比田勝658)

続く昭和期には、有江(中尾)政雄の手による、愛らしくコミカルで心を和ませる狛犬が登場し、太祝詞神社(ふとのりと。美津島町加志)などに奉納されています。また、アーモンド形の瞳が特徴的な岩永系の狛犬もよく見かけます。

(写真15) 「有江政雄の狛犬」 昭和13年(1938年)、太祝詞神社(美津島町加志512)
(写真16) 「岩永石材店の狛犬」 昭和27年(1952年)、天道大神神社(厳原町豆酘/龍良山)

戦争と狛犬、そして現代

国境の島・対馬は、常に外国との軍事的緊張にさらされてきました。そのため、神社の鳥居には「日露戦争」「凱旋記念」などの文字が目立ちます。しかし意外なことに、戦時中に全国の神社で流行した威圧的な「護国型」の狛犬は、島内ではほとんど見られません。緊迫した時代の中にあっても、神域には平和や平穏を願う柔らかな祈りが込められていたのかもしれません。現在、島内で新しく狛犬が彫られることはなくなりましたが、対馬には石造に加え、木製や焼き物(高麗青磁、備前焼、信楽焼、九谷焼、瓦など)で作られた珍しい狛犬(一部非公開)も数多く残されています。

(写真17) 「九谷焼の狛犬」 入江神社(豊玉町嵯峨624-4)
(写真18) 「瓦製?の狛犬」 大正13年(1924年)、海祇神社(美津島町島山1)

これらの狛犬たちは、オリエントに端を発する悠久の歴史、大陸からの伝播、日本での独自の発展、そして対馬内外の交流の歴史や奉納者の切なる願い、石工たちの確かな技術と情熱を、今も境内の片隅から静かに語り続けています。まずはカメラや携帯電話を片手に、近所の神社に出かけてみませんか?

(写真19) 「広島・呉の狛犬」 入江神社(豊玉町嵯峨624-4)
(写真20) 「対馬一之宮・海神神社の狛犬」 明治43年(1910年)、海神神社(峰町木坂247)
(写真21) 「石工・木村の狛犬」 昭和4年(1929年)、銀山上神社(厳原町久根田舎507)
(写真22) 「金原嘉七の狛犬」 明治36年(1903年)、大吉戸神社(美津島町黒瀬515)

エヌ
Profile

エヌ

(一社)対馬観光物産協会・マニアック担当
対馬・厳原町出身、美津島町在住。島内を歩きまわり、トレッキング、砲台、光るキノコ、お城、神社、狛犬、対馬に関連する漫画・アニメ・ゲームなどの情報を発信するのがライフワーク。WEBサイト「エヌの世界」を運営中。

この記事をシェアする

  • エックスにシェアする
  • フェイスブックにシェアする
  • スレッズでシェアする
  • ラインでシェアする
トップに戻る 一覧に戻る