
金田城は、663年の白村江の戦いで倭国が敗北した後、667年に国土防衛の為に築かれました。東国から召集された防人たちが城山山頂から朝鮮半島を睨み続けたといいます。それから1,200年以上の時が過ぎ、日露戦争前夜、再び要塞として整備。陸軍が築造した砲台施設の跡が今でも残っています。
小茂田浜は鎌倉時代の元寇文永の役で、数万の大群を率いた蒙古軍が来襲した地。小茂田浜神社は、国のために命懸けで戦った宗助国公と家臣の魂を祀ってあり、11月第2日曜日には慰霊の大祭が行われています。近年は、世界的にヒットしたゲーム、Play Station®4/5ソフト「Ghost of Tsushima」などでその名は国内外に轟いています。

万松院は対馬藩主・宗家の菩提寺で日本三大墓地の一つ。1615年に宗義成が父・義智の冥福を祈り建立しました。参道には「百雁木」と呼ばれる132段の石段が続き、荘厳な景観。本堂には朝鮮国王から贈られた青銅製の三具足が保管され、対馬と朝鮮の友好関係を今へ伝える貴重な文化財です。
1591年に豊臣秀吉が朝鮮出兵の軍事拠点として築いた山城。標高210mの清水山にあり曲輪が石垣で結ばれた構造が特徴です。東西約500mにわたる遺構から、厳原の町並みや港を一望できます。
江戸時代から明治にかけて、朝鮮との外交機関「以酊庵」が置かれていた寺。享保17年(1732)の以酊庵焼失で、西山寺は瑞泉院に移りましたが、明治元年に以酊庵が廃寺となり故山に還りました。

対馬は古代から現代まで、朝鮮半島、アジア諸地域や日本本土と活発な交流をしてきました。博物館では、これを物語る様々な資料を展示しています。展示は5つのエリアで構成されており、対馬を象徴する総合展示の空間から始まります。


江戸時代の朝鮮通信使は、日本の要請により朝鮮国が派遣した外交使節団で、朝鮮国王と徳川将軍が国書を交換し、260年以上にわたる平和と友好を築きました。対馬市の朝鮮通信使歴史館は、この交流の歴史を伝えるスポットです。
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朝鮮通信使とは、室町から江戸時代にかけて朝鮮から派遣された外交使節団のこと。特に、江戸時代においては、徳川将軍の代替わりや節目を祝し、豪華絢爛な使節団が釜山と江戸を往来。中継貿易の独占権を持っていた対馬藩の宗氏はその大行列の一切を担う重要な役割を果たしました。200年以上にわたり平和な関係を築いた通信使の姿を記した日韓各地に残る資料群が、ユネスコの「世界の記憶」に登録されるなど、その外交史上における価値の高さを物語ります。

世界恐慌後の昭和9(1934)年に完成。砲身長18.5m、砲身重量108トン、実用射程距離は30.3kmという世界最大級の巨砲が置かれ、日本海側の防衛拠点の役目を担いました。戦後、砲身は八幡製鉄所で溶かされ復興の資材になりました。
明治34年に完成した最大級の砲台跡。日露戦争時に28㎝榴弾砲6門を備え、「天空の要塞」と称されました。標高約170mの山上に赤レンガと砂岩で造られ、現在は自然と調和したレトロな雰囲気に。砲座跡や兵舎跡が残り、市の史跡に指定されています。
明治後期、日露戦争時に構築された堡塁で上見坂公園敷地内に。口径15センチの火砲が4基据え付けられていましたが実戦では一度も発射されることはありませんでした。空港からもアクセスが良く、最も行きやすい砲台跡です。

海の守護神豊玉姫を祀る対馬唯一の一宮。木坂山全体を御神域とする聖地で、不浄を許さない神聖な場所です。司馬遼太郎が小説「街道をゆく」で、この地を訪れ海洋民俗の信仰について記述しています。寺院と神社が融合していた痕跡があるほか、境内には原生林が成す野鳥の森があります。
『延喜式』(神名帳)には、小社として「胡禄神社」「胡禄御子神社」の名を見ることができる。この両社、延喜式以後の『日本三代実録』などの記録では明神大社並の神位を授与されており、対馬を代表する神社の一つであった。また、海上から拝礼する神社だった名残が神秘的で、海につながる参道は圧巻です。
島の最南部にある対馬固有の天道信仰の本拠。豆酘観音は対馬六観音の一つ。お堂の領地は六観音の中で極めて広く、神々しい雰囲気の神社の参道には樹齢650年の御神木の大楠があります。


かつて東洋一の455mという高さを誇った電波塔で船舶などの位置確認に利用されていました。アメリカやオーストラリアなど世界に8箇所あり、アジアには唯一対馬だけに設置されました。
独特な存在感で目を惹く、板状の石で屋根を葺いた対馬でしか見られない高床式の倉庫。厳しい気候や火災から食糧や貴重品を守るための独自の知恵から生まれた伝統的建築です。