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国境の島が果たした歴史的な役割を知り、
対馬だけの絶景に感動。ブラタモリの聖地を巡礼!
全域 | 歴史・テレビ | ||
1泊2日 | ★★☆ | ||
全ての季節 | レンタカー | ||
【1日目】 ふれあい処つしま(9時発)→(移動110分)→韓国展望所(30分)→(移動50分。途中、上対馬で対州そばランチ40分)→艫綱石(10分)→(移動30分)→西の漕手(30分)→(移動30分)→金田城トレッキング(120分)→(移動30分)→厳原エリアの宿にチェックイン宿泊(17時着)→厳原で夕食 【2日目】 ふれあい処つしま(9時発)→(移動20分)→椎根の石屋根倉庫(20分)→(移動5分)→小茂田浜神社(30分)→(移動20分)→清水山城トレッキング(60分)→(厳原でランチ40分、移動10分)→金石城跡・対馬博物館(50分)→(移動5分)→対馬藩家老・氏江家の石塀(20分)→(移動15分)→渡辺菓子舗の石切場・買い物(30分)→(移動5分)→ふれあい処つしま(14時30分着) |
NHKのブラタモリで2度にわたって放送された対馬篇。国境の島が果たした役割を探ると題して、一泊二日でぐるりと全域レンタカーで回ります。上対馬エリアの韓国展望所で釜山の街灯りが見えるほどの韓国との近さを感じた後、浅茅湾から金田城へ。「リアス王」と称賛された複雑な地形の入り江とその奥にある集落にも着目します。元寇の舞台や石屋根倉庫、武家屋敷通りまで、広く深く、まだ見ぬ対馬の面白さを発掘してみましょう。
am9:00
韓国まで49.5㎞の至近距離にある展望所
オープニングで訪れたのは韓国展望所。韓国・釜山までわずか49.5kmに位置するこの展望所は天候に恵まれれば、夜景はもちろん、日中でも肉眼で釜山の街並みを見ることができます。朝鮮半島と対話し交流してきた対馬の長い歴史、平和外交についても展示パネルで学ぶことができます。
上対馬エリアから南下する途中のランチタイムには、上県町佐須奈の中心エリアがオススメです。いくつか飲食店がありますが、対馬名物の対州そばを食べてみてください。
魏志倭人伝の世界が蘇る謎多き、艫綱⽯。
峰町三根の水田はその昔は海岸で、艫綱⽯は船を係留するための艫綱を結ぶための石と伝えられています。ここは魏志倭人伝の時代の対馬の中心地だったとされる場所で、近くの三根遺跡からは大量の土器などが出土しています。
遣唐使気分で訪れたい古代の港
美津島町小船越にある古代港で、遣唐使や遣新羅使たちは九州本土から向かって対馬入りして東の三浦湾で下船し、大きな船は別の船に乗り換えて、また小さな船は人力で陸揚げして、この港から大陸を目指したとされています。
対馬の軍事的役割を伝える貴重な文化遺産
1,350年前に築かれた朝鮮式古代山城で、防人が国防の最前線を担った歴史的な場所です。日露戦争時には近代要塞として整備され、古代と近代が融合する特別史跡となっています。「続日本100名城」や日本「最強の城」に選ばれたことで、その歴史的価値が再評価されています。
pm5:00
厳原エリアの宿にチェックイン
厳原で夕食
2日目
am9:00
何層にも重なったミルフィーユ屋根の珍建築
番組内で「これは重いよ」「まるでミルフィーユ」と言われていた屋根の倉庫がここ、椎根の石屋根倉庫です。椎根では浅海の島山から運ばれた砂岩の板石を倉庫の屋根として用いていました。この辺りの集落は山際一列に民家が並んで、川の両岸に小屋が集まる独特の形態が見られます。この地域は風が強いので、屋根は重いほど良いとされていました。
宗氏が見た壮絶な光景を体感
文永11年(1274)、900艘の艦船に分乗した元・高麗連合軍3万人が佐須浦に襲来し、守護代宗資国以下80騎が激戦の末、全員討死しました。宗助国の騎馬像は小茂田浜神社の境内にあり、神社には戦死した将士の霊が祀られ「軍大明神」と称されています。宗助国が陣を構えた場所は番組内にも出てきた「ひじき壇」で、小茂田浜神社からすぐ近くの小高い丘を登ったところにあり、現在は金比羅神社になっています。
厳原の港の出入りが一望できる秀吉時代の山城
厳原八幡宮背後の清水山城跡は、豊臣秀吉が朝鮮出兵の天正19年(1591)に築いたとされます。清水山は独立した丘陵地形で、一之丸、二之丸、三之丸が階段状に配置されています。規模は小さいものの、文禄・慶長の役に関わる遺跡であり、特に二之丸の桝形虎口が良好に保存されています。
厳原の繁華街は対馬の中で最も飲食店が集積するエリア。郷土料理や海鮮料理、定食など、その時の気分に合わせてお店をチョイス!ただ、外国人観光客や団体客による混雑、定休日があってランチ難民になることも。事前にお店に電話するのが安心です。
城下町全体を活気づけて対馬藩の威光を知らしめる
享禄元年(1528)の内乱で「池の屋形」が焼失し、宗将盛は国分寺近くに「金石屋形」を築きました。寛文5年(1665)に義真が国分寺を移転して金石屋形を拡張、城郭を整備し、併せてこの時期に相次いだ大火をきっかけに、城下町の町割りが再編されるなど、城下町が活気付いて街が華やいだことが伺えます。博物館に行くと、さらに詳しい資料が揃っていますので立ち寄ってみましょう。
映える城下町!人の背丈より高い石垣塀
対馬藩家老・氏江家の石塀。対馬博物館から渡辺菓子舗(採石場)までは、約1.5kmにわたって江戸時代の石垣が残されていて、宗家の家臣達の屋敷が建ち並び、対馬振興局がある厳原町宮谷地区は対馬藩宗家の家老氏江家が屋敷を構えていました。通信使たちが一番初めに目にする日本の顔として相応しい風格があります。
白く輝く石英斑岩が切り出された場所へ
ラストは、渡辺菓子舗の敷地駐車場の裏側に位置する石切場へと向かいます。太陽の光で白く輝く石英斑岩。この真っ白な岩が大胆に切り出された跡を見ることができます。ここから切り出された石が石垣として使用され美しい城下町は生まれました。当時、真っ白く壮麗な石垣を目にした朝鮮通信使たちはこれに魅了され、絶賛していたことは想像に難くありません。
pm2:30