対馬の守り人が鎮座する小茂田浜神社

対馬の守り人が鎮座する小茂田浜神社

1274(文永11)年10月5日、対馬西側の佐須浦に900艘とも言われる大船団が姿を見せ、ついには上陸戦を開始しました。広義には元寇、あるいは蒙古襲来と言われ、狭義には文永の役と呼ばれる合戦の火蓋が切って落とされたのです。

迎え撃ったのは対馬の武士・宗資国(助国とも)です。後世にまとめられた『八幡愚童訓』などの編纂史料では、宗資国は上陸してきた大軍に対して80余騎を率いて奮戦し、討ち死にしたと伝わります。

のちに、資国のひ孫にあたる宗氏第4代当主の宗経茂が、資国と、共に戦った勇士たちの霊を鎮めるべく建立したのが師大明神(いくさだいみょうじん)、現在の小茂田浜神社です。

小茂田浜神社

伝承では、資国は現在の小茂田浜神社の東にある小高い丘「ひじき壇」に陣を張り、資国の家臣・斎藤資定は小茂田浜神社の南にある岬、現在の「天神神社」付近に陣を張ったとされています。現在の小茂田浜(当時の佐須浦)は江戸時代の干拓や近代の港湾整備で姿を変えていますが、伝承どおりの場所に陣を張ったとすると、上陸してきた元・高麗軍を見下ろし、かつ、挟み込むような位置に陣を張ったことになります。資国の戦略眼の高さを伺い知ることができます。

さて、対馬は南北に82km、東西に18kmと細長い形状をしており、面積は709平方キロメートル。琵琶湖に匹敵するほどの広大な島です。また、全島的に入り組んだ地形を表すリアス海岸が発達しており、海岸線の延長は実に915kmにも及びます。そのような長大かつ複雑な海岸地形が多い中にあって、元・高麗軍が上陸した佐須浦は比較的緩やかで、平坦な海岸地形をしており、珍しく大軍が上陸戦を展開するのに適した地形でした。 朝鮮半島南部の合浦を発して日本に向かった大軍は、対馬を臨みながら南下してきて“偶然”にこの浦を発見して上陸したのでしょうか?

小茂田浜海水浴場

そもそも、1274年の旧暦10月に開戦した文永の役ですが、始まりはその8年も前に遡ります。モンゴル帝国第5代皇帝で、元あるいは大元という国号を制定した人物でもあるフビライ・ハンは、高麗を服属させたのち、日本に使者を送り、服属を求める外交交渉を始めます。1266(文永3)年に派遣された使者は結局日本に渡らずに戻りましたが、1268(文永5)年に派遣された使者は、フビライの書状を持参して日本へ渡海します。この時も恐らく対馬を通過していったはずです。書状は幕府を経由して外交権を有する朝廷に奏上され、その対応・返信が議論されますが、高圧的な内容と日本への侵攻をほのめかす内容に対して返信しないという結論が出されています。通算6回の使者が派遣され、そのうち5回の使者が対馬を経由、あるいは対馬まで来て帰っていきました。

朝廷、及び幕府は使者が持参した書状等に書かれた内容や、南宋からもたらされる大陸の状況等から、進軍の可能性が極めて高いと判断し、御家人に対して防衛のための措置(教科書に出てくる「異国警護番役」を課す)をとっています。また、上陸が高く想定される北部九州では、鎮西奉行少弐氏を中心に、各地の軍事力の把握などが進められたことが分かっています。

それでは、『八幡愚童訓』の記述に目を移しましょう。

佐須浦に敵方現るとの情報に接した宗資国は80余騎を率いて佐須峠を越え、佐須浦に向かったとされています。正確な数字は分かりませんが、対する元・高麗軍は大小合わせて900艘、3万人もの軍勢が押し寄せ、そのうち1000人が上陸したとされています。1000人対80人程、数字を見るといかにも無謀な戦いのように見えますが、そこにはトリックがあります。騎馬武者には弓を持つ者、馬を引く者など3~5人ほどの従者がいたと考えられるため、実際には1000人対300人~400人程度だったと考えられます。それでもなお3倍以上の相手に対したことになり、多勢に無勢の状況は変わりませんが、印象は大きく変わりませんか? 80人だと近しい家臣だけ従えて取り急ぎ陣を構えたかのように見えますが、400人となると、事前の入念な準備がないと動員できない印象に変わりませんか?

小茂田浜神社大祭
小茂田浜神社大祭

いかがでしょうか?

事前の諜報活動で得た情報に基づき、上陸に適した佐須浦に軍をすすめた元・高麗軍。同じく事前情報に基づいて動員できる最大の軍勢を率いて戦略的に佐須浦に着陣した宗資国。という構図に見えてきませんか?

この時資国はすでに60歳を超える老兵でした。また、文永の役以前に戦闘経験があったことを示す確実な記録は残っていません。持ちうる限りの地の利や戦の知識を使って佐須浦の戦いに臨んだことと思います。

元寇の後、戦った御家人たちに配る恩賞の土地が少なく、その不満を浴びる形となった鎌倉幕府は終焉に向かいます。

資国の息子を始めとした後継者たちも、資国と共に戦った家臣の子孫たちから批判を浴びることがないよう、恩賞の確保に奔走したはずです。資国を祭神とする師大明神を建立した宗氏4代・宗経茂は、対馬の支配を弟に任せ、自身は対馬を離れ、筑前守護代として少弐氏とともに北部九州で転戦した人物です。対馬を留守にすることができるほど、安定した統治が出来ていたものと思われます。逆説的に考えると、経茂の代になってようやく、祭神として資国を祀る体制が整ったのかもしれません。それを物語るかのように、資国の墓と伝えられるお首塚、お胴塚はともに南北朝時代以降の様式であることも注目されます。

歴史の教科書に宗資国という名前は出てきません。

今ではきれいな砂浜とのどかな田園風景が広がりますが、この地で日本の歴史を大きく揺るがす大事件の先鋒として戦った武将がいたこと、その武将が鎮座する神社があることを知っていただき、改めて平和について、思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

村瀨達郎
Profile

村瀨達郎

1984年生、対馬市(豊玉町)出身。2012年より対馬市職員(文化財課→観光商工課)
歴史大好き。高いところは苦手なので白嶽山頂には登れません。
最近は息子たちと遊ぶ時間が楽しすぎて時間がほしいです。

この記事をシェアする

  • エックスにシェアする
  • フェイスブックにシェアする
  • スレッズでシェアする
  • ラインでシェアする

DIGITAL MAP

トップに戻る 一覧に戻る