はじめまして。城郭ライターの萩原さちこです。対馬愛が実り、長崎県対馬市より〈対馬お城大使〉を拝命しています。
私がとりわけ対馬に魅了される理由は、古代から近代まで遺跡の宝庫だから。歴史ファンにとって、対馬は夢の島。城ファンにとっても特別な場所です。あなたのまわりに歴史ファンや城ファンがいたら、聞いてみてください。「いつか訪れてみたい憧れの地」と、きっと答えることでしょう。
九州と朝鮮半島のちょうど中間に浮かぶ対馬は、その地理的条件から古来、独自の歴史と文化が息づいています。日本と中国大陸を結ぶ交流の窓口となる一方で、ひとたび外国との軍事的緊張が高まれば、海に浮かぶ大要塞として国防の第一線になるのが宿命。いつの時代も〝国交の中継点〞であり〝国防の最前線〞なのです。
ですから、対馬には軍事施設としての城がいくつもあります。大きな特徴は、それらの城が国家的な理由で築かれていること。対馬の城を辿れば日本の戦史が辿れる、といっても過言ではありません。必ず戦いの影響を受ける、その物的証拠が対馬の城というわけです。学術的価値の高さはもちろん、残存度が高く見ごたえも抜群。城と密接な地形や立地を、絶景を通して感じられるのもうれしいところです。
城のバリエーションが豊富なところも、対馬の城の魅力といえます。城といえば天守を連想しますが、長い城の歴史の中で、天守が存在するのはほんのわずかな期間のみ。社会の変化とともに、城の構造、規模、場所、存在意義も変わっていきます。
担う役割もさまざまに異なり、たとえば戦国大名の居城であれば政庁としての要素が色濃く、駐屯や連絡のための城は街道と密接、戦いのためだけに最前線に築かれた臨時の城(陣城)や勢力の境目にある城は戦闘性が高くなります。
対馬はいつの時代も最前線となる国境の島ですから、各時代の国家的な緊張とセットで軍事施設としての城が対馬に残されていきます。いつ、なぜ、この場所に城が築かれたのかに着目すると、対馬の城のスゴさやおもしろさが実感できるはずです。
対馬の代表的な城をいくつかご紹介しましょう。もっとも有名なのは、国の特別史跡に指定されている金田城でしょう。663(天智2)年の白村江の戦いに敗北後、大和朝廷がつくらせた国防の城〈古代山城〉のひとつです。
金田城の築城者は、中大兄皇子(後の天智天皇)。国家存亡の危機に国家プロジェクトで築かれた城ですから、一領主の居城とは比較にならないスケールと技術力を誇ります。長大な石塁が現在も累々と残り、残存度も抜群。国内に残る古代山城のなかでも、金田城の満足度は間違いなくトップクラスです。
おもしろいのは、山頂付近で古代から明治時代にワープするところ。日露戦争時、山頂付近だけが改変され城山砲台として再利用されます。これも、国境の島・対馬ならでは。約1200年後に再利用されるなんて、中大兄皇子も想定外でしょう。そもそも、古代山城が存在するのは北部九州と瀬戸内海沿岸部の限られた地域だけ。近代の遺跡が共存する古代山城は、おそらく全国で対馬だけです。

戦国時代にも、対外戦争を機に城が複数つくられます。その代表が、豊臣秀吉が文禄・慶長の役(朝鮮出兵)の中継地として築かせた、清水山城です。朝鮮出兵時に築かれた城は国内では数城しかなく、日本の歴史を知る上でもとても貴重。日本国内に残存する城の石垣は江戸時代以降に積まれたものが大半ですから、秀吉時代に築かれた石垣はそれだけで全国的に希少価値があります。
清水山城は、城ファンとしては悶絶する城です。迫り来る開戦に向けて、秀吉の命令を受けた対馬の宗氏と九州の三大名が合力で急造したとみられるため、縄張(設計)に統一感がなく、城内に残る石垣の積み方もバラバラ。当時の“秀吉流の城”のセオリーに準じつつ、各大名が試行錯誤しながらつくり上げたのでしょう。その違いは、秀吉の絶対的な権力の具象化であり、九州の武将が切迫した情勢下で奮闘した証でもあるのです。築城の背景に想いを馳せると胸にくるものがあります。
清水山城からは厳原港を見下ろせ、晴れた日には壱岐も見えます。三の丸から見渡す絶景は、一見の価値あり。明征服を狙った秀吉の野望に想いを馳せるのも一興です。

江戸時代になると、宗氏は朝鮮出兵で断絶した国交を回復すべく仲介役として奮闘。国書偽造までやってのけながら、国交回復のパイプ役を見事に完遂します。こんな前衛な動きができるのも、国境の島で生きてきた宗氏らしいですね。幕府の常識に左右されない、商人のような宗氏のたくましい外交手腕が私は好きなのです。江戸幕府の諸大名への扱いを比較してみると、宗氏を頼らざるを得なかった実情もうかがえます。
対馬を治めた宗氏の城が、中村館、池館、金石城、桟原屋形です。個人的に興味深いのは、金石城と桟原屋形の立地です。日本の近世城下町は全国的にセオリーに準じて整備されていきますが、府中(厳原)の城下町は中世的な香りも残しつつ、近世的な要素を取り入れた独自性があります。鎖国中も外交の窓口となり、使節団の経由地となったためでしょう。城下町には朝鮮通信使を迎えるために整備した石垣が残っていて、江戸時代の外交の賑わいを感じさせます。防火壁としてつくった石垣もたくさん残り、古くから息づく対馬の石文化も実感できます。

そして、近代遺跡も豊富です。対馬を訪れた“城ファンあるある”のひとつが、砲台にハマること。私もそのひとりです。日本では幕末に海防論が高まったことで800〜1000の砲台がつくられ、その後、明治政府が引き継いだ国防強化の過程で昭和にかけて砲台や堡塁が建設されます。対馬は国境の島ですから、この時代にもたくさんの砲台がつくられました。
驚くのは、分布や特徴から日清戦争・日露戦争・第二次世界大戦の三時期の建設・使用時期に分類できること! 対馬の地政学的な重要性、日本と敵国の戦略を知ることができるだけでなく、我が国における要塞の発展史も追えるといえるでしょう。
様相の異なる砲台は、対外戦争という大きな波が押し寄せるたびにそれを受け止めて生き抜いてきた、先人たちの履歴に思えます。対馬にはそういう、日本人が重ねてきた時間が細やかに刻まれているのです。

城郭ライター・編集者。(株)城旅デザインラボ代表、(公財)日本城郭協会理事・学術委員会学術委員。執筆業を中心に、講演、メディア・イベント出演など行う。著書に「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」、「地形と立地から読み解く戦国の城」、「日本の城語辞典」、「日本100名城と続日本100名城めぐりの旅」「パリで見つけた小田原城」など。朝日新聞デジタル&TRAVEL「城旅へようこそ」ほか、新聞や雑誌、WEBでの連載、監修多数。https://46meg.com/